資料室
・過去に新聞雑誌等に掲載された記事の内容に若干修正し順次紹介いたします。
・気合の効果 空手新聞
池田守利(埼玉県空手道連盟)
ごくふつう筋力といえば、その人が意志の力で発揮できる最大の筋力(出力)のことを意味しているが、これは、真の筋力の80~90%止まりが出ているにすぎない。なぜすべての筋力が出せないか?これは大脳の運動中枢に、意志の力では取除くことのできないある種のブレーキが、つねに働いているからである。力のすべてを出しつくさないよう、また筋肉を破壊しないように防衛反応としての安全弁がきいているのである。しかし、これとても一時的に解除して、大きい筋力を出させることができるのである。 猪飼博士は、上腕で力一杯重りをもちあげる作業を2秒に1回のテンポで、くり返しおこなわせた。図がその時の成績で、もちあげる回数が100回、200回と進むにつれて、最大筋力が低下してゆくのがよくわかる。いわゆる筋疲労がおこってきたわけである。ところが、このようなときに自分で大きい声(気合)をかけながらもちあげると、はじめにも出なかったほど大きい力が発揮される。しかも、これが300回をこえて、ほとんどつづけて作業のできなくなったころでも、また大きい気合をかけさせると、おどろくほどの力が発揮できることが示されている。
このように、気合など大声によって、すごい力の発揮できるのは、大声が特殊な神経衝撃となって、それまで、保護のための安全弁となっていたブレーキが、一時的に除かれるためだと考えられる。 たとえば、火事場などで、老婆がタンスなどを持ち出し、つねには考えられないような大力を見せた話を聞くが、これも異常事態においこまれて、逃避本能からくる特別な惰動反応によって、大脳へのブ レーキが一時的に解除されたためといえよう。 武道における気合も、こう見るときわめて興味ある問題で、一気に力を発揮するためと同時に、他の雑念を払いおとす効果が考えられる。一つの例が空手道における『決め』のとき気合がともわないと勝ちを認めないことがあるのもそういう意味では、その一瞬に集中しているかいなかを判定する目安としているので理に合っているといえる。
[空手新聞 第31号(3) 1972(昭和47)年1月20日発行]掲載
・スポーツと体力 空手新聞
池田守利(春風館道場)
ごくふつうの会話の中に『体力』ということばがでてくると、だれもが筋肉たくましく見るからに力強い体を思いうかべる。もちろん、これがすべて間違っているわけではない。だといって、体力の正しい定義は何かとあらためて問いつめられると、生まじめな顔で「体力とはストレスに耐えて生命を維持してゆく身体の防衛力と、積極的に仕事をしてゆく身体の行動力との二つの組み合されたもの」だと紋切型に答えるしかないだろう。しかし、これでもほんとうの意味の正しい答にはなっていないように思うし、またますますむずかしくなってすんなり理解できそうにもない。そこで、もうすこし平易にこの問題を考えてみよう。防衛体力というのは、生きている力(生在性)、行動体力は、たくましく生きてゆくカ(生産性)というふうに理解してよい。身近なところで考えてみると、 ・少し寒くなってもカゼをひかない ・暑い時期にも夏バテしない ・たまに睡眠時間が不足してもがまんできる ・力仕事もさほど苦痛にならない ・身のこなしもかなり素早い ・頭脳労働も十分にこなせる ・ときに不快なことがあっても情緒の動揺がおきないなど、実はこういうものが実生活のなかで要求されるわけで、この中には防衛体力も行動体力も十分にふくまれているのである。こうして体力というものは多面的に表現ができるので、体力論を長々とつづけても大きな効果はない。記録に挑戦しようとする一部の人は別として、現代一般人に要求される体力はどのていどのものかというと、およそ次のようにまとめてよいではないか。 全身持久性・筋力・敏しょう性・協応性・平衡性・柔軟性などが「職業に必要にして十分なもの」を「むらなく.バランスよく」そなわっていればよいので、それがどの水準かというのは科学を超越した哲学の領域になるであろう。むしろ一人一人がきめるべきである。 実際的な方法としては、高さ30cmのふみ台を用い、毎分30回の速さで2分間、この台に昇り降りさせる。そして、このときの脈拍数と、呼吸機能とくに酸素消費量を測って、運動前、運動中、運動後の回復の状態から呼吸循環系の調節能力を総合評価する。
図1 年齢と体力指数との関係(橋本) 図2台高と体力指数との関係(橋本)
このテストはステップ・テスト(橋本)とよんでいるが、若干の実験成績を例示してみよう。 図1は、男子67名にこのステップ・テストをおこない、これをもとにして体力指数をもとめて年齢別に図化したものである。図中の太い線は、体力指数曲線でこれをみると、この基礎体力指数は20~25歳で最高を示し、あとは年齢とともに低下してゆくことが、はっきりとわかり、われわれが実際に経験する事実を正しく証明してくれている。体力指数が、例えば、50であったとすると縦軸の50と体力指数が交わったところから真っ直ぐ下に降ろした横軸の値が40となり、体力年齢が40歳であることが分かります。つまり、このテストを受けた人の実際の年齢が50歳であったとすると、体力年齢は10歳も若いことになります。 また、こんどはふみ台の高さをいろいろと変え、他の速さと時間を一定にしてテストしてみた結果を図2に示してある。もちろん体力指数のまとめ方は前と同様である。同年代の青年女子、青年男子、マラソン選手の成績であるが、マラソン選手の体力指数が他の二者とくらべてきわめてすぐれていることがよくわかる。と同時に体力指数とふみ台の高さとにはっきりした関係があることに気がつくであろう。三者三様にもっとも大きい体力指数を示すふみ台の高さ、つまり運動強度があることである。 これは、その人に適当な運動の強度があることを示唆していて、興味のある成績である。基礎体力の大きいものは強い運動を、小さいものは比較的弱い運動から始めなければならないことも立証しているといってもよい。 基礎体力:スポーツことに武道は、人格の陶汰を身心の激しい鍛練によって行なうもので、そのなかから技とカを修得するものだと私は理解している。激しい鍛練にはそれだけ強い体と意志とが要求されるわけで、とくに身体的条件としては、長時間の鍛錬に耐えて疲労を処理する能力や、積極的な健康を維持することが必要で、私たちはこの条件を基礎体力とよんでいる。
[空手新聞 第34号(3)1972(昭和47)年4月20日発行]掲載より追加修正
・随筆・空手道を学んで 空手新聞
池田守利(春風館道場)
中学生のころ友人を駅までおくりに行き、その駅前広場で、しばらく二人で立ち話をしていた。そこへ同じ年ごろの二人の男がニコニコしながら話しかけてきた。はたから見ると、いかにも同級生が偶然にあったような感じだが、しかし話の内容はそんなものではなく「金を貸せ」とおどしているのである。チンビラどもは、私の自転車に手をかけているので、これをおいてにげるわけにはいかず、そうこうしているうちにチンピラの仲間がポツリ、ポツリとあつまり五人ほどにふえとりまかれてしまった。 その時、私の友人が空手らしき構をしたら「空手をやるぞ」とその連中は一歩さがった。そのすきに駅へにげこみ駅員に110番へ連絡してもらった。しばらくすると、パトロールカーがきたが、すでにチンピラどもは、姿を消してしまっていた。しかし警官の要請でパトロ-ルカーにのり、そのあたりをまわってみたが見つけだすことはできたかった。 この時に自分の非力はもちろん、駅前で人通りが多いにもかかわらず、だれ一人として私たちのおどおどした顔と、困り切った姿に助けを出してくれる人はなく、ただかかわりないように通りすぎてゆく大人たちのふがいなさに強く憤りを感じた。
ところで、人間は集団生活している以上社会の一員であるので『おれはだれにも世話にはならない、世話もしない、また迷惑はかけない、迷惑をかけてほしくない』といくら力んでも、大小の差はあるにせよ、それにかかわりなしには生きてゆくのは不可能である。 しかし、できるだけ自分のことは自分で処理するように努力したいものである。その手段として空手道を学んだのであるが、当初は、けんかに強くなりたいという、ごく狭い視野でしか考えていなかったが、空手道の上達するにつれて、病気になりやすい、ひよわな身体も体力的に自信が持てるようになり、また内気で陰気な性格でなにをするにも引っ込み思案で活動性に乏しかった。あくまでも自分のものさしであるが、このような性格をも、自ら学んだ武道が、その習得される過程において、かよわい精神も、しだいに強くなり、人前でも、権威の前でも堂々と自己主張し、そして精力的に働き、しかもコンスタントなかたちで仕事をして行くには、体力が充実している状態でなければならない。『健全なる精神は健全なる身体に宿る』ということわざにあるように、なにか自分に興味がもてる武道かスポーツをやることにより、達成できるものと思う。
[空手新聞 第46号(3) 1973(昭和48)年4月20日]掲載・随筆・空手凶器論 空手新聞
池田守利 (春風館道場)
空手道については、とかくまちがった話の伝わっていることが多い。沖縄返還を目前にひかえたころから、とくにそれがひどい。もっとも空手道が沖縄にその流れを発していることから、時期としてはかっこうな話題となるにふさわしかったのだろう。そんな話のなかで、ふと開いていて「ほんとうかな?」と思う話題をとりあげてみたい。 それは、空手道の有段者は必ず警察に登録しなければならない、という話である。つまり、黒帯をしめるものとなると、その攻撃力のすさまじさが、いわば凶器ともいえるというのが根拠らしく、銃器・刀剣などを所持するさいに届出ると同様に、「私は空手道の有段者です」と登録するというのである。われわれ空手人のなかにも、この話をいまもって信じている人もいるし、まったく信じないにしても半信半疑の人が多いと思われる。このような噂が広まったことについて、それを説明してくれる書物を手に入れる機会をえたので、ここにその一節を紹介したい。
え・池田守利
『頃は1935(昭和10)年代のある時期のことである。空手が日本に定着して非常な勢いで普及しはじめたのに驚いた、ある武道家の一団が、そのすさまじいまでに強烈な破壊カに腰を抜かして?これは武道じゃない、凶器そのものだとばかりにあわてふためいて(自分等の分野が荒らされて存在価値がなくなると判断したかどうかわからないが)当時の議会筋に働きかけ、「空手を禁止しろ、それが駄目ならせめて有段者を登録制にして、どこに凶器が存在するかすぐわかるようにすべきだ」と立法を依頼したのが事の真相である。もちろん、そんな立法がなされるわけがなかったようであるが、それが火種となって現在も煙が立ちのぼってくるのである。』(南郷継正著=武道の理論より) 私はこれを読んで、大いなる反省をせざるをえなかった。果して空手道にはげむ人々が、習い覚えた技を『道』として、『心』として身につけただろうかと。このような噂のあったこと自体を恥じなければならないと。
[空手新聞 第46号(3) 1973(昭和48)年4月20日]掲載
・ナイハンチ初段と本部朝基先生 空手新聞
池田守利(埼玉県空手道連盟・春風館道場)
昔はナイファンチ初段の型だけで5~6年もやって、はじめて他の型を習わせるとか、空手はナイハンチ初段1つで充分、これが完全にできればl人前、何10年空手をやっていても空手はナイハンチにはじまりナイハンチにかえるなどと言われています。 埼玉県の春風館館長高野玄十郎先生に聞くところによると、春風館道場の流祖本部朝基先生はこのナイハンチだけしかつかわれなかったとさえ言われています。また、実戦の大家としても有名であり、沖縄近代の挙豪といわれている本部先生は1870(明治3)年 琉球の首里に王族の分家である本部按司の三男として出生、16歳から空手を始め松村、松茂良、佐久間、糸州、安里の諸大家に師事して大成をされたものです。 青年の頃「本部のサール」といわれたほどの飛猿だったそうで、那覇の辻の土塀(約2㍍の高さ)をいとも簡単に飛越したと伝えられています。また若いころは、支那海の海賊の首領で少林寺拳法の使い手を上段の一撃で退治した話や、50余歳でドイツの名ボクサーと京都の武徳殿で試合し、掌手の上段突で簡単に倒した話はあまりにも有名です。 本部先生は1924(大正13)年に内地に渡来して大阪、東京に住み、空手道の普及に精進され、1929(昭和4)年東洋大学にはじめて空手部がおかれたとき初代師範として指導に当られたということです。高野先生はその頃に入門され、東洋大学空手部の第一期生としてまなび、卒業後も続けて教えを受けられたということです。
え・池田守利
けい古のあと一杯飲みながら、本部先生に聞かれた小伝の一つに、沖縄にいたころ居酒屋で酒をたしなみ、ほろよい気分で帰宅途中、数名の刃物などを持った無頼漢の襲撃にあわれた逸話があります。 普通映画・テレビなどの活劇場面では、はなばなしく、立ち回りよろしく・・・・・となるわけですが、実際には、このようにカッコヨクゆかず。土塀を背にし、自分のゲタを両手に持ち応戦され、そのとき、目の下に刃物によるかすりキズを受けたが、ことごとくけちらしたのが、ナイハンチ初段であったそうです。 すなわち、ナイハンチ初段はもっとも基本の型であり、実戦的な型ともいえましょう。この型を完全に自分のものにするには、長年の鍛錬を要するので、毎日練習するようにこころがけたいものです。 本部先生は、1942(昭和17)年頃故郷沖縄に帰られ、戦後74歳の高齢で沖縄の土となられました。
[空手新聞 第58号(4) 1974(昭和49)年4月20日発行]掲載
・『空手道の形の統一』に思う 空手新聞
池田守利(埼玉県空手道連盟・春風館道場)
どこの職場でも労働者の年齢構成が年年高くなり、その対策が真剣に議論されるようになったのはごく近年のことである。私の勤めている鉄道労働科学研究所でもこの対策として中高年者の労働体力の研究がすすめられ、テストが実施されているが、その受験票によってスポーツ歴や健康法など実施状況をみると、加齢とともにスポーツを日常的に行なうものは少なくなり、とくに50歳代でわずかに約8%のものが実施しているにすぎない。しかしスボーツ実行の減少傾向とは逆に、高年者ほどいわゆる健康法といわれる、散歩、ボーリング、魚釣りなど、ごく軽度な身体活動ですむものが高率に実行されている.これは加齢とともに自身の健康に対する関心が高まっていることを意味しているといえよう。 しかし加齢によって衰える身体諸機能のうち、とくに運動能力に関係するものは、単に健康法とよばれているていどの強度の運動では、それを推持・向上することは期待できない。何らかの形で実効のあるトレー二ングを定着させたいものである。 さいわい私は畳一枚ていどの広さがあればひとりでもかなりのけい古ができるという空手道を学んだ。何でもそうであるが、体力の向上や維持は、そのためのスポーツなどを長<続けるというところに効果があり意味がある。それにはよほど強固な意志がなければなかなか実行できるものではない。みなさんの中にも学生時代に空手部で、あるいは近くの町道場で毎日練習した人たちが学校を卒業、または転勤などで手軽にできなくなるとだんだんと練習が遠のいてしまうことを経験しているにちがいない。たとえその勤務先にクラブがあっても流派が異なるとなかなか気楽には入れないものである。
それにひきかえ剣道は、古来から数多くの流派が伝わっていたが、剣道指導上の基準となる形が必要となり、大正元年に全国の剣道界の権威者が集まり、各流派のなかからもっともすぐれた技を抜き出して組み立てられ、日本剣道が生まれた。このように流派に関係なく技をみがけるようになったことが息ながく剣道をつづけられる原因のひとつだと思われる。 その一例として、国鉄には中央鉄道学園という教育の場があり、教育期間も数週間から数ヶ月と内容によって分けられており、その中に大学課程(三年制)が中心となっている剣道部がある。ここには初心者から剣道の心得がある者までがとび入りで短い学園生活の期間を利用して、気楽に練習をして行くという実にうらやましい光景がみられる。これも上記の基本形がうまく整理されているからである。
空手道においても遠山寛賢著「空手入門」に沖縄空手道大家の座談会(本稿は空手史上貴重な文献となる)1936(昭和11)年10月25日4時・沖縄県那覇市昭和会館・琉球新報社主催が掲載されているが、その中に空手の普及というところで、古川「空手の流派が現在人によって多様に分かれているが、(中略)これは統一して日本空手道の形というものを作る必要あると思います。・・・」宮城「・・・従来の形はそれぞれの先生方による古式の形として残し、全国的なものは新しく編み出す方がよいと思います。(以下略)」のようにのべている。このように形の統一については古くから議論されている。 空手人口が増すにつれて全空手界の団結が要望され1966(昭和41)年に全日本空手道連盟が結成されたわけであるが、現在組手試合、統一的昇段、体協加盟などがすでに達成されている。そこで今ひとつこれから空手道を学ぶ人々のためにもできるだけ早い時期に空手界の権威者による形の統一をお願いしたい。
[全空連は8つの指定型を1982(昭和57)年に制定]
[空手新聞 第77号(4)1975(昭和50)年11月20日発行]掲載
・国鉄と空手道の歴史 国鉄広報新聞・つばめ
池田守利(鉄道労働科学研究所・労働生理研究室)
国鉄労研空手道研究会 鉄労働科学研究所では、クラブ活動として中高年職員が中心になって「労研空手道研究会」を発足。会員は10人そこそこであるが、けい古はさかんである。それだけではなく空手道の歴史、「技」を生理学な面と心理学な面からも研究しているのである。衆知を集めた成果を武道学会などに発表し、情報の交換をしている。
鉄道省・空手道部・本部朝基師範 国鉄における空手道の歴史は古く、国鉄が鉄道省といわれた時代に、沖縄出身の本部朝基師を師範とする空手道部が存在していたのである。この結びつきも、これからの研究によって解明されることになろう。この沖縄で育った空手道はいまや日本全土はもとより、世界の空手道として急速な普及をみせている。 このもとは、大正後期に本部朝基(本部流)、船越義珍(松涛館流)、摩文仁賢和(糸東流)、宮城長順(剛柔流)らによって、本土に紹介されたことにある。とくに、本部師は数多くの実戦の逸話があり、その中でも京都でのプロボクサーとの試合では、上段への一撃によって簡単に相手を倒したという。これなどは人のよく知るところであり、実戦的な武術としてこの空手道の存在を世人に強く印象づけたとされる。
(え・池田守利)
現在では、本部を除く会派・団体のほとんどは、すでに組織は確立されている。しかも、その指導的立場にある人の中には、かつて本部師の指導を受けた人も少なくない。その本部家にゆかりのある道場がいくつか存在することが判明した。これを機会に本部朝基師を流祖とする空手道関係者の間に、朝基師独特の空手道の伝統を維持し、さらに、これを発展させようとする機運が高まってきた。各道場の有志らは相互の懇親を深めるとともに、技術向上をはかることを目的として、1977(昭和52)年4月に本部朝基師の二男である本部朝正師を会長として、日本空手道本部会を結成した。本部家は、琉球王朝時代の10代目尚質王の六子(尚弘信本部王子朝平)を先祖としている。朝基師の兄朝勇師は、本部御殿に伝わる琉球王家秘伝武術(これは一子相伝であり長男だけが受け継ぐ)の11代目継承者として文武の教育を受けられ、拳聖といわれた。現在は、沖縄の上原清吉師が12代目を継承している。本部会もこの琉球王家秘伝武術の宗家である上原師に指導を仰ぎ本部流古武術協会の関西本部長の普久原朝盛師を通じて総本部に所属している。 ところで、朝基師の高弟であった丸川謙二師の話によると、1925(昭和10)年ごろ国鉄(当時は鉄道省)にも空手道部があり、本部師が師範をつとめていたということである。その部員に松森正射(早大の空手部出身)がおり、大学卒業後も引継いで指導を受けていた。松森氏は1959(昭和34)年に米子鉄道学園の学園長を最後に退職され、ある町の町長になったというが、いまは故人になってしまった。まだこのほかに本部師に指導を受けた職員がいるとされており、国鉄における空手道のあゆみも「技」を磨きながら体系づけることにしている。
[つばめ第504号1978(昭和53)年8月5日編集日本国有鉄道広報部4面]に掲載
・沖縄で「武と舞」研究発表会 月刊「武道」
池田守利 (本部流春風館)
武道ニュース 第二回「舞と武」合同研究発表会
♦沖縄の芸能の根源は「武」にあり、王家秘伝の武術と古典芸能とは根本的に相通じ合うところがあるとして、本部流古武術協会(上原清吉宗家)、紫の会琉舞練場(島袋光裕宗家)、与儀小枝子筝曲研究所の三者合同で第二回舞と武合同研究発表会が1977(昭和52)年9月4日に沖縄タイムスホールで開催。プログラムは二部からなり、それぞれ舞の手さばきや発声の仕方、間のとりかたなど「武」との関連について約3時間にわたって披露された。 本部御殿手は琉球王家秘伝として本部御殿に伝わる手である。これは代々長男だけが継承してきた。本来ならば師の長男である朝明氏が継ぐわけであったが、いろいろな事情で、上原清吉師がその奥儀を受け継ぎ、第12代目の宗家となり現在に至っている。 御殿手は体の線をやわらかく保ち、逆手を使って相手を倒す技である。一見、何の技もないように思いがちだが、これにかかると、どんな大男でも身動きとれなくなる。つまり、手の力の入れ具合で相手にケガをさせることなく無抵抗にする。さらに技を強くかけると、それこそ必殺の極意に達する不思議な武術といわれている。また武術としての本部流の精神は、どんなに多人数を相手に闘っても、決して相手に傷を負わせてはいけない。この点が普通の空手の形や構えと大きく相違するところである。御殿手の体の線をやわらかく保ち、相手を倒す技が古典舞踊の「押し手」「こねり手」「拝み手」などと一致し、また筝曲の筝の手さばき、発声の仕方などにおけるイキ使いや緩急と共通する点があることを今回の発表会で披露された。
高野・安間・坂口・稲葉・操野・小泉・真鍋・本部・當・夜明・普久原・池田
稲葉・坂口・小泉・操野・真鍋・當・夜明・安間・高野・池田 城間・本部・上原宗家夫妻・普久原・島袋
なお、関西本部長、普久原朝盛氏はじめ9名が参加し、ヌーチク、ジオン、本部バッサイなどの空手の形を演武した。とくにナイファンチと組手は、本部朝基師の独特の形である。これを演武した関西本部の本部朝正氏は、朝基の三男にあたる。なお、関東(埼玉)春風館の高野清・安間忠明・池田守利の3名も参加した。
月刊「武道」通巻 133号12月号p150, 1977 (昭和52)年12月1日発行より抜粋写真等追加地方だより 第五回「舞と武」合同研究発表会
第5回舞と武 合同研究発表会
♦沖縄に古くから伝わる武術と芸能との関連を定義づけようと第五回舞と武合同研究発表会が1980(昭和55)年6月15日午後2時から、那覇市民会館大ホールで行われた。主催したのは、本部御殿手古武術協会(宗家:上原清吉師)のほか紫の会琉舞練場と琉球伝統筝曲琉絃会で参加はそれぞれのメンバーたち。 琉球舞踊には空手など武術の要素が非常に多いというのは、これまでも各方面から指摘されているが、この発表会では、それが実際にどのようにかかわっているかを具体的に実証するのが目的。
本部御殿手は、琉球の本部家の空手秘術として伝えられてきた古武術。一子相伝廃藩後は故・本部朝勇氏がこれを伝えてきた。こんどの発表会では、拳のほか逆技、投技、刀、槍、カイ、棒、カマ、ヌーチク、など多彩な舞踊の関連性が24演目にわたって披露され、好評だった。 なお、これには本部流の関西支部(大阪)から本部朝正・稲葉尚武・小泉聖ら3人、関東(埼玉)春風館の高野清・安間忠明・池田守利・鈴木克人・島袋博美ら5人が参加した。
月刊「武道」通巻 165号8月号p165, 1980 (昭和55)年8月1日発行より抜粋し写真等追加
・傘寿記念祝賀演武会 月刊「武道」
池田守利 (本部会)
琉球王家秘伝武術12代宗家 上原清吉先生 80歳記念祝賀演武会
♦琉球王家秘伝武術12代宗家上原清吉先生80歳記念祝賀演武会は、1984(昭和59)年3月24日・25日の両日、宜野湾市民会館(24日)と那覇市民会館(25日)でそれぞれ開催され、本部御殿手古武術協会の門弟一同は恩師・上原清吉師の満80歳を祝し、長寿と壮健を祈って盛大な演武を行った。本部御殿手は、琉球王家の秘伝として本部御殿に伝えられてきた手であり、12代目の宗家である上原清吉師は、本部朝勇師からこの技を受け継いだもの。
本部御殿手古武術協会(上原清吉会長)では、古武術と古典舞踊・筝曲奏法とのかかわりついて、理論的に比較考察し、これまでに数回の発表会を通して、その関わりを具体的に実証し、関係者の高い評価を得てきた。このたびの演武会では、突き、蹴りに対する体捌き・短刀多人数取り、からみ手のほか短棒、棒、鎌、サイ、ヌーチク、トンファーなどの武器を使用しての多彩な技、さらに琉球舞踊、筝曲塞唱が披露された。今回とくに注目されたことは、上原最高範士による「武」をリズムにのせての体捌き・足の運びの大切さをはじめ、素手で剣・長刀・槍・山刀など武器を持った相手に、実際にどのような動作によって相手を傷つけずに勝負を決めるかが実演され、館内を魅了した。また、日本空手道本部会(本部朝正会長)は、実戦組手で有名な本部朝基師を開祖とする直系の門下生達の集団であり、この本部朝基師は本部御殿の朝勇師の弟にあたる。その関係から、本部会は本部御殿手古武術協会に所属。上原清吉師を本土に招いたり、また沖縄を訪ねて御殿手の指導を受け、その心技を取り入れ奥義を究めようと目下懸命に努力精進を続けている。
月刊「武道」6月号p72~73, 1984 (昭和59)年6月1日発行より抜粋し写真等追加
*本部御殿手の素晴らしさを広く知ってほしいと思い、私は事前に日本古武道協会事務局を訪ね古武道協会の趣旨を伺い、琉球王家秘伝本部御殿手の歴史と武術内容について説明をした。そして、第5回「舞と武」合同研究発表会参加の際に、上原宗家にこの話をしたが多くの人に公開すると秘伝が秘伝でなくなると言われたことを記憶している。80歳の祝賀演武会でお会いし、再びこの話したところ日本古武道協会に加盟することを任された。(1984年4月24日に日本古武道協会入会)
・ 町民文化祭で武術を披露 月刊「武道」
'98三芳町生涯学習フェステイバル 1998(平成10)年11月3日(火) 町民文化祭 かっぽれ・ダンス・武術のつどい 主催:生涯学習フェステバル実行委員会 後援:三芳町・三芳町教育委員会 協力:本部流手道館 (本部御殿手教室・奄美会代表者:宮原美佐子 記)
◆1998(平成10)年10月24日(土)から11月3日(火)の11日間にわたり、埼玉県入間郡三芳町において生涯学習習フェスティバルの一環である『'98町民文化祭一芸術と文化の祭典』が行われた。 祭典の締め括りとして、最終日の11月3日には、竹間沢公民館において『かっぽれ・ダンス・武術のつどい』が行われ、150名収容できる大ホールは、家族連れなどの来場者により満員となった。 開演にあたり、町民文化祭運営委員の向吉孝子氏から挨拶があり、同氏の進行により、今回の参加団体であるストロベリーキッズ,ポップコーンキッズ,琉球王家秘伝武術・本部御殿手,江戸芸かっぽれ,みよし太極拳,フリージア,タップダンサーズの紹介があり、順次日々の成果が披露された。各参加団体の内容は興味深いものであったが、ここでは、「本部御殿手」の演武についてのみの紹介とさせて頂きたい。 演武時間は20分間であり、この間、琉球王国の王族、本部家に代々伝えられてきた武術である本部御殿手の歴史と流儀の特徴を解説と実演を交えて行った。 実演内容は、4部で構成され、第1部は、基本の[元手一]と[合戦手三,四]の型により、身体の鍛え方と素手による突きや蹴りの攻撃技の剛術の披露を行った。第2部では、[サイ,ヌーチク,棒]を用い、武器と身体が一体となった技を披露した。また、棒を用い、二対一の合戦術を行った。第3部では、琉球舞踊曲の[浜千鳥]に合わせて踊ると同時に、この舞踊に含まれている技《相手を傷つけることなく無抵抗にする[取手]という柔の技》との関連もあわせて披露した。第4部では、最も基本的な動きである[手之元]の型を披露した。この[手之元]は、健康体操としての効果もあることにより、会場の皆様に声をかけ、来場者全員と演武者が一体となっての実演となった。 演武者は、上原清吉宗家の指導を受けた池田守利師範(本部御殿手・手道館主宰)およびその門下生である竹間会所属の森田義治(竹間会代表者)および久保雅昭、池田光生、池田哲生、高原守、新井正亭、山根康秀、鈴木昭彦、本間馨、宮川耕也、大塚清久、奄美会所属の宮原美佐子(奄美会代表者)善岡恵子、松本幸子、有馬糸子、松沢千枝子、の総勢17名で行われた。 全ての演武は、来場者より多大な拍手をもらい、つつがなく終了することができた。演武終了後、会場より「技の迫力を実感した」「一見優雅な舞踊に凄い技が組み込まれている様子がよく分かった」「演武の披露に留まらず会場の人も参加できたので楽しかった」等の感想を頂き、また県外から本部御殿手のみを目的に来場して下さった方もいたことを知り、感慨ひとしおであるとともに、今後の練習の励みにしたいと思った。 最後に今回演武の披露の機会を設けて下さった竹間沢公民館の職員の方々、演武の披露にあたり、照明、音響等を担当して下さった町民文化祭運営委員会のスタッフの方々、および快く〔手之元〕に参加して下さった来場者の皆様に心から感謝する次第である。
後列:新井・宮原・松沢・松本・有馬・喜岡・山根・大塚・鈴木 前列:光生・森田・池田・久保・宮川・哲生 ・高原 (於:竹間沢公民館)
月刊「武道」3月号p142, 1999 (平成11)年2月28日発行より抜粋し写真等追加
・東京学芸大学 市民公開講座で本部御殿手を講演
平成11年度 東京学芸大学市民公開講座 空手道の楽しみ方 期日:1999(平成11)年6月12日(土) 主催:東京学芸大学 後援:文部省 協力:本部流手道館 (鉄道総研・本部御殿手教室・奄美会代表者:宮原美佐子 記)
本部御殿手の科学的研究と実演 ◆1999(平成11)年6月5日~7月3日にかけて、東京学芸大学において、市民公開講座「空手道の楽しみ方」(全10講座/主宰 東京学芸大学 藤枝賢晴助教授)が開かれた。本講座では、空手道の研究や指導に従事する方、空手等の推進団体や伝統武道として保存に努める方々の協力のもとに,より多くの人々に空手道の奥の深さや楽しみ方を紹介することを目的として行われた。そして、この一連の講座の一つとして、「本部御殿手の科学的研究と実演」(本部御殿手古武術協会常任理事:池田守利)が6月12日に行われた。本講座では、池田守利師範より、まず本部御殿手の理解を深めてもらうために、その歴史や流儀の特徴、また技術体系について、基礎的な説明が行われた。そして、次に、上原清吉 第12代宗家の演武中および前後の生理学的なデータを提示しながら、技の凄さ、技を極めた者が生体としていかに優れているかが示された。 ◆講演終了後、琉武館の安間忠明師範(鈴木佳衛、寺井啓、石崎順二、吉田弘)と手道館の池田守利師範(池田光生、池田哲生、高原守、宮原美佐子、松本幸子、有馬糸子、藤枝賢晴)の両師範と各門下生らにより本部御殿手の実演が行われ、素手術、武器術、そして複数の武器を持った者を相手に闘う術や琉球舞踊の浜千鳥と取手術の関連、最後に空手のナイハンチ(本部朝基)の型と応用技などが披露された。 ◆実演終了後、会場と質疑応答を受け付けたところ、積極的に質問が出され、さらに、実際に本部御殿手を行ってみたいとの希望が聞かれた。そこで、会場の受講生30名弱全員が参加し、演武者9名が分かれて、指導、説明を行うことになった。終了時間を多少延長し、会場の方々の積極的な参加のうちに講座は終了したが、講座終了後、空手を始めとし、少林寺拳法、合気道などを行っている方々より、実際に互いの技を交換できた事が有意義であったとのご意見や始めて本部御殿手を知った方々からは、歴史からの説明がとてもわかりやすかった等のご意見を頂き、実りの多い講習会となり、我々一同貴重な体験が得られた。 後列:鈴木・吉田・哲生・光生・高原・寺井(於:東京学芸大学・柔道場) 前列:石崎・松本・有馬・藤枝・池田・安間・宮原
月刊「武道」11月号 p134~135p142, 1999 (平成11)年発行より抜粋写真等追加
・取材を受けた雑誌記事
・本部流再興 月刊空手道
● トピックス 本部流の再興
拳聖、空手道の生みの親の一人として知られる船越義珍に対し、同時代に生きた本部朝基は、多くの逸話は語り伝えられているものの、未だ不明な点が多い。 1923(大正12)年頃、兵庫県で御影警察や御影師範で空手道(当時は唐手術と称された)の手ほどきをしたとか、昭和四年頃、東京へ移住して後、神田の小石川町に道場を構え、東洋大学の初代師範を務めたというが、直系の弟子筋はないとされ、「技」にしても「心」にしても、その実体は判然としない、と考えられていた。ところが、最近、関東、関西、沖縄の、本部朝基に緑のある空手家が集まり、本部会なるものが結成されたのである。そもそものきっかけは、本部朝基に、かつて教えを乞うた故高野玄十郎氏の春風館の門下生が、ある武道雑誌に、投稿したことに始まる。そして、本部朝基の三男、朝正氏が、大阪に存在していることが分った。朝正氏自身は、十三、四歳頃、少しばかりの手ほどきを受けたのみで、「内畔戦だけは今でも使えますが、父の関係で出入りしていた沖縄の人たちと研究しつつ覚えた、いくつかの形はもう忘れてしまいました」という。しかし、朝正氏以外に本部流の空手道を継承できる資格を持つ人物はいないとされる。本部流の場合、一口に空手道といっても、その内容は我々が通常考える空手道とは、いささか趣を異にしているのである。
● 琉球王家秘伝武術と本部流
本部流は、琉球王家尚氏につながる名門だとは、以前から言われていたことである。しかし、その実相に関しては、判然とはしていなかった。本部家は、第十代尚質の六男、尚弘信本部王子朝平を始祖とする。この王子は、武をよくした人で、以来、琉球王家秘伝武術、本部御殿手古武術、本部流古武術が、代々、継承されてきたという。そして、本部流古武術が、いわゆる本部の空手として本土で、あるいは沖縄で多くの人々によって修業され、伝えられてきたのである。では、王家秘伝武術、御殿手はどうなっていたのかというと、両武術は秘伝、秘術とされ、代々、本部家の長子に教え、受け継がれるべきもので、ほとんど陽の目を見なかった。だから、本来なら今だに「秘伝」として、本部家の直系に継がれ、存在はするも、知られることのない武術のはずであった。ところが、第十一代の本部朝勇から、その子の朝明、朝茂といった相伝の候補者に伝えられる際、種々の事情(朝茂は戦死)で、継承し得なかった。本当なら、この時点で「秘伝」は歴史の奥底に葬り去られる運命だったのである。しかし、本部家の直系ではないが、朝勇から直接教えを受けた、上原清吉氏が「技」「心」を継承していた。そして、本部本家に伝え直そうというのだ。朝基は、朝真の三男であった。出来うれば、長子(朝勇)の系統が、後を継ぐべきなのだろうが、先にも述べたように、それは不可ということだ。そのため、朝基の系統の朝正氏(朝勇の甥にあたる)に、本部流の継承者たるべく白羽の矢が当たったわけである。ところで、本部流、とくにその中でも「王家秘伝武術、御殿手古武術」とは、いかなる武術なのか。「どんなに鍛えた人でも、皆、足先の皮がむけてしまいます。空手とは全く違う基本なわけです。剛の手に対する柔の手ともいえます。本部流古武術は剛の手、王家秘伝と御殿手は、柔の手です。柔の手の特徴は、一言でいえば、相手を絶対に傷つけない武術です。それが、王家たるゆえんでもあります」と、上原清吉氏はいう。現在、この上原氏を大阪に招き、あるいは沖縄に訪ねて、本部流の継承者にふさわしい「技」「心」を会得すべく、本部朝正氏は特訓中だという。まもなく、第十三代、本部流宗家が、生れる。
[月刊空手道 通巻20号10月号本部流再興 P45(株)福昌堂1979(昭和54)年10月1日発行]より抜粋
・呼吸法を科学する 月刊空手道
PART4 呼吸法を科学する
科学が探る、スピードと威力を出すための呼吸法 気合いがパワーを増強する ●構成・文責/本誌編集部
・池田守利氏プロフィール 鉄道総合技術研究所研究員、日本武道学会会員。 専門は運動生理学。自らも空手(日本空手道本部会)琉球古武術を行い、空手、武道をスポーツ科学の見地から研究、数多くの論文発表している。 武道においては、相手との立ち合いの際の呼吸の重要性が多く説かれている。 それらは、先人が、経験を通して、気づき、体得していったものである。では、この奥妙ともいえる部分に科学の光を当てたならば、どのような結果が出るのか。空手など武道に運動生理学の観点からアプローチしている池田守利氏にうかがってみた。
呼吸によって突きのスピードが増せる?
空手における呼吸法と、ひと口にいっても、さまざまな側面があるので、一概には論じられないが、ここでは《素速く突きを出すための呼吸》について考えてみたい。 ここにひとつの実験データがある。鉄道総合技術研究所労働科学研究室の池田守利氏による実験である。池田氏は、鉄道業務に従事している人たちの、例えば、高速運行時の運転手の注意力に関する研究などを行なっているが、自らも空手、琉球古武術をやっていることから、武道に関係する研究論文も数多く発表している。 そのひとつに、『空手道の突き動作と呼吸調整との関連について』と題された論文がある。 この実験内容をかいつまんで言うと、その場中段逆突きで巻きわらを突く動作を、さまざまな呼吸の状態のときに行ない、その反応時間を調べているものである。 ここで、実験内容を詳しく紹介することはできないが、これによってわかったことは次のようなことであった。「最も動作が速く、かつ強い出力が出るときは、吸気相の終期に動作が開始されやすい」、また、「吸気相の終了時前後の呼気移行時に合図が出された場合が最もやりにくい」、という結果が得られた。(図①)
これらのことからいえることは、ひとつは、意識するしないにかかわらず、吸気相、つまり息の吸い終わる直前に、突きの動作が開始されれば反応速度の速い突きが打ち出せるのではないかということ。また、息を吸い終った前後、つまり吸気から呼気へ移ろうというときには、最も反応速度が遅くなるので、これがいわゆるスキの問題として考えられるのではないかということである。 だから、この実験の結果から、呼吸の点についてだけ考えれば、相手が、吸気から呼気へ移ろうというときに、攻撃を加えればヒットする可能性が大きくなるといえる。逆に、自分が吸気から呼気への移動時に打ち込まれないようにするためには、相手に呼吸をさとられてはならないということになる。
また、表①は、空手の有段者が巻きわらを軽く突いたとき(半分程度のカ)、強く突いたとき(声は出さない)、気合を入れて突いたとき(突く瞬間に声をかける)の3種類の突き方をしたときの突きの開始時点での呼吸を調べたものである。 これを見ると、軽く突いた場合より、強く突いた場合のく方が突きの強度は高いのが当り前であるが、強く突いた場合と気合を入れた場合を見ても、突きの強度、反応時間どちらにおいても気合いを入れた時の方が勝っていた。表で、突きの動作開始時点における呼吸において、気合いを入れて突いた時には、吸気の場合が多くなっているが、これは気合いを発するために、その直前に息を吸っているためと考えてよい。 しかし、これらの実験も、あくまでひとつの限られた条件の中でのデータであることを忘れてはならないと池田氏は強調する。「この実験では、相手がいない状態で、1人で巻きわらに向かって突いているわけです。これが実際に、相手と相対した場合にはどうなるか? 実際の立ち合いには、それこそさまざまな要素が絡み合って、結果としてでてくるわけです。呼吸に関するデータとはいっても、これは、極く限られた条件の中での一面としてこのようなことがありますよ、ということであって、その他のさまざまな要素でより影響力の強いものがあれば、データから導き出きれたことも関係なくなってしまいます」
経験によって学んだものを科学の裏付けで確信を得る
実験によれば、空手の高段者と、初心者の突きの開始時点から終了までの平均スピードにはほとんど差がないという。しかし、実際に立ち合ったならば、初心者は高段者の足もとにも及ばない.そこには、測定できる要素としての、反応速度やスピードのほかに、実に多くの要素が介在して、その結果として勝敗が決することを物語っている。 また、気合いについても、人間はたとえ教えられなくとも自然に行なっている。気合いとは、科学的に見れば、かけ声をかけることによって、大脳の抑制(普段は筋肉がこわれないように、8~9割程度までしか使われていない)を一時的に解除する働きとされている。これにしても、たとえば、重いものを持ち上げる時には、意識しなくても自然声がでる。 したがって、このように経験のなかで、気づかれてきたもの、あるいは気づいていなくとも自然に行なわれているもの、それらに科学の光を当てることは、その一面を浮きぼりにすることによって、「なるほど、科学的にも裏付けきれたか」と思うことができれば、それは大いに練習者のはげみには、なるだろう。 自らも空手を行なっている池田氏は、空手における呼吸について科学的分析を加えながらも、呼吸については自然がよいと考えている。「もし、呼吸だけについて考えるならば、相手と対したときに、浅い静かな呼吸のほうが変化にすぐ対応できやすいということがあります。ですから、そのような自然の呼吸の状態で、いつでも技を出せるようにするには、特別の呼吸法の練習を行なうというよりは、自然な呼吸の状態で技を出す練習を行ったほうがよいのではないでしょうか」
[月刊「空手道」6月号 呼吸法を科学する P24~25 (株)福昌堂 1989(平成元)年6月1日発行]・動けばそれが技に 月刊秘伝
高弟が語る「上原清吉」-池田守利師範に聞く
埼玉県三芳町で本部御殿手、手道館を主宰する池田守利師範 昭和50年代初めに上原師と運命的な出会いを果たし、以来、御殿手の古武道協会への登録の働きかけや、本土での御殿手普及に尽力してきた。上原師の高弟でいらっしゃる池田師に弟子からみた上原像を語っていただいた。 聞き手 吉峯康雄
◆まず初めにお伺いしますが、御殿手と遭遇されたきっかけはどのようなものなのですか?
池田 御殿手については、私どもが学んだ本部流は本土に来られた本部朝基先生が東洋大学で教授されたのが始まりですが、本部先生から学ばれた高野玄十郎先生が朝霞に春風館という道場を開いていまして、私は1961(昭和36)年にそこに入門しました。それから1977(昭和52)年頃まで春風館で独自にやっていたのですが、その事を知った大阪の本部先生の息子さんから手紙を頂きまして、どうせなら-緒にやりませんかということで、本部会を発足させたのです。その時にちょうど神戸に上原先生が来られており、そこで初めて御殿手の存在を知ったのです。当時では御殿手は沖縄でも上原先生の-門以外はあまり知られておりませんでしたので、これだけ優れた技術を眠らせておくのは勿体ないと思い、是非とも武道館で演武して頂きたいと思って古武道協会に登録を勧めたのです。
◆最近ではTVやビデオでも御殿手は知られるようになりましたが、池田先生は御殿手についてはどのような印象をお持ちですか?
池田 私も空手以外にも剣道や合気道にも手を染めたことがあるのでずが、他の異質な武道を改めて学ぶ場合、また基礎から仕切り直しをしなければなりません。しかし御殿手の場合は基本の突き蹴りの動きがあらゆる武器や取手の動きに直通しているのです。だからどんな技でも違和感無く使うことができるわけです。長い武器でも、短い武器を両手に持つ場合でも同じです。また御殿手は-対-の動きではなく、常に一対多数の乱戦を前提にしています。そのために体の捌きは回転動作が多く、また手は両手に刀を持った動きを多用しています。
◆御殿手の場合、歩きながら技を掛けることが多いようですが、これも沖縄の武術としては異色ですね。
池田 そうかも知れません。しかしこれも会得すれば非常に使いやすい枝です。というのも、歩く動きというのは相手にとって動きの起こりを捉えにくい。それから飛び込むような動きと違って予備動作なしに自然に使えるので、相手の動きに出遅れることがないのです。それに御殿手では原則として相手に一番近い手足を使って攻撃するのですが、これを歩く動きと併用することによって、ごく自然に間合い入り込むことができるのです。これは外見的には八百長のように見えるのかもしれませんが、実際に相手にとっては予測困難な動きになります。これは空手の基本の動きとは矛盾しているようですが、最終的なところでは似た考え方になってゆくのです。
◆上原先生についてはどのような印象をお持ちですか?
池田 武道に対しては常に前向きな姿勢の人ですね。武道として一つのパターンを踏襲するというのではなく、あらゆる局面に対応ずる姿勢が常にありましたね。私はまだ考えないと技が出ない段階ですが、上原先生の場合は相手がどう来ても考えることもなく、とにかく動けばそれが技になる、という感じなのです。先生の教え方も非常に感覚的で、一通りの動きをやってみせて、これをやりなさいというだけで、定まった型もなければ細かい説明や注意もほとんどない。というのも技に対する固定観念がなく、その局面における最も有効な動きをすればいい、という考え方なのです。見様によっては出鱈目をやっているようにも見えますが、そうではなく、先程説明したような原則はあるわけです。ですから会得できるかどうかは受け取る側の能力にも左右されやすいと思います。そういう意味では御殿手は普及しにくいものかも知れませんね。
◆現在では池田先生はどのようにして教授されているのですか?
池田 私のところでは空手と同じく、基本の突き蹴り、その場基本、移動基本、それから取手、棒やヌーウチク、サイ、刀等の武器を稽古することになっています。私としては是非とも定着させたいのですが、初心者の場合、どうしても稽古体系がないと難しいと思いますので、このような形式にしたのです。
◆是非とも定着されることを願っています。今日はどうも有り難うございました。
[秘伝 動けばそれが技にP16~17(株)BABジャパン1998(平成10)年1月1日発行]より抜粋
・雑誌等に掲載された記事
第3回鹿島神宮奉納 日本古武道交流演武大会に古武道33流派が奉納演武を致しました。
このうち・琉球王家秘伝本部御殿手(本部流御殿武術・手道館)の演武が雑誌や動画等に掲載された記事を抜粋してまとめてみました。
「KenYuGo67」という方がYouTubeに動画をアップしてくださいました。
(第3回鹿島神宮本部御殿手 と入力すると本部御殿手の動画が見られます)